祈りの力

聖書には『祈り』について、多く書かれています。

そして、『祈り』をとても大切なこと、としています。

どう祈ればいいのか、祈ったらどうなるのか、など色々書いてあります。

私は最初、祈ることは出来ませんでした。

でも、出来ないと感じていただけで、普段から思っていることが、すでに祈っていることだと気付きました。

たとえば・・・何気ない会話で「祈ってるね」とか、言ったりしませんか?

それが、すでに祈ってるということです。

特に親は子供の健康や無事を何より願っていて、毎日毎日、「今日も子供たちが健康に無事にすごせるように・・・」と、自然に祈っているのではないでしょうか。

そんな心から自然にあふれる思いが、本当の祈りなのだと思います。

日本には色々な神様がいて、神社へ行き祈ったりもしますが、

この世にイエス・キリストを送ったという神様は、いつでも私たちのそばにいて見守ってくれています。

だから、どんなときでも祈ればいいのです。散歩中も、車の運転中も、料理の最中でも。

いつでも、そばにいて祈りを聞いてくれています。

ただし、一つだけ条件があります。

それは、神様が私たち人間の罪のためにイエス・キリストを十字架につけられた、ということを信じること。

ですから、イエス・キリストの名を通してでなければ神様とつながることが出来ないのです。

神様は、私たち人間の罪深さを知っていて、そのためにイエス・キリストを送ったのですが、私たち人間は自分が罪人だとわかっていません。

ですから、イエス・キリストを受け入れるということは、自分が罪人だと認めるということ。

自分は何の罪も犯していないと思う人もいると思いますが、聖書の中では罪についても色々書かれています。

警察に捕まるような事柄はもちろん罪ですが、その他に次のようのものが罪となります。

「不品行、汚れ、好色、偶像崇拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興」(ガラテヤ5:19~21)

こういった罪は人間であれば誰しも犯しているのではないでしょうか。

ですから、人間は生まれながらに罪人なのです。

神様から背いたアダムとイブから受け継がれてきた人間の罪、原罪です。

原罪を理解することにより、イエス・キリストの十字架の意味を知り、心に受け入れることが神様とつながることになるのです。

そしてイエス・キリストの十字架によって赦されたことを、感謝の思いをもって祈るのです。

イエスは彼に言われた。

わたしが道であり、

心理であり、

いのちなのです。

私を通してでなければ、

だれひとり父のみもとに来ることはありません。

わたしが父におり、

父がわたしにおられることを、

あなたは信じないのですか。

わたしがあなたがたに言うことばは、

わたしが自分から話しているでのはありません。

わたしのうちにおられる父が

ご自分のわざをしておられるのです。

またわたしは、

あなたがたがわたしの名によって求めることは

何でも、それをしましょう。

父が子によって栄光をお受けになるためです。

あなたがたが、

わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、

わたしはそれをしましょう。

ヨハネの福音書14:6、10,13,14

聖書 新改訳 日本聖書刊行会より引用